
About しずおか遺産とは
静岡県は、豊かな自然に恵まれ、様々な歴史的出来事が繰り広げられた歴史文化資源の宝庫です。
県では、県内にある有形・無形の文化財を結びつけた魅力的なストーリー「しずおか遺産」を9つ認定しています。
「しずおか遺産」を辿り、本物の歴史を訪ねる旅に出かけてみてください。
Stories しずおか遺産ストーリーズ
01
近代教育に情熱をかけたしずおか人の結晶 令和4年度認定
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武士の世が終わった明治時代。新時代の担い手となる若者の教育に力が注がれた。明治5年(1872)に学制が発布されると、各地域で校舎の新築競争が始まった。
県内でも伝統的な日本建築を踏襲しつつ、外見は洋風の校舎が造られた。時を超えてまちの景色と調和したたたずまいは、学校としての役割を終えた現在も、こどもたちが初めて体感した日本の近代化の象徴として、地域の人々に愛され、語り継がれている。
近代初期に造られた学校は、いずれもが強烈な個性を持ち、「しずおか人」の教育にかける意気込みを訪れた人に、今も伝える。

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エピソード1 近代教育の幕明け 詳しく見る
- 大きな変革期を迎えた明治時代の日本。明治5年(1872)、学制が発布され、だれもが自由に学ぶことができる新しい時代にふさわしい教育がスタートした。
- 各地で寺院等を利用し学校が開かれる中、新校舎建設の動きも起きた。
- 多くは和風の建物であったが、洋風校舎を建てた地域もあった。洋風校舎は、多くのこどもにとって、初めて体感する西洋であり、文明開化の象徴であった。
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エピソード2 今に残る明治の学校 詳しく見る
- 静岡県内には、明治時代の洋風校舎が3棟残る。一つは、磐田市の旧見付学校である。磐田市域には、洋風校舎が3か所に建てられたが、唯一現存する校舎である。
- 松崎町の旧岩科学校、旧大沢学舎も現存する明治時代の洋風校舎である。
- この他、明治時代に新築された校舎のうち現存するのは、森町の旧城下学校と菊川市の旧内田学校のみである。
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エピソード3 学校建設への苦闘 詳しく見る
- 学校建設で特に大きな課題となったのは、建築資金である。資産家の寄付の他、住民からの寄付金も募られ、多くの住民が応じたと伝えられる。
- しかし、寄付金を出せる余裕がある家は少なく、草鞋を編んで売ったお金を寄付する人や、資材の提供、材木運びを行う等、新時代の担い手であるこどもたちの教育に熱意をかけた地域の人々のエピソードが残されている。
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エピソード4 いきづく伝統 詳しく見る
- 洋風校舎は、各所に和の要素を持ち、地域的な素材等を用いる。
- 岩科学校は、松崎の町屋でみられる「なまこ壁」を外壁の一部に採用する。磐田市内では、「伊豆石」が建築に利用されてきたが、見付学校でも使用されている。
- 地域に根付いた技術、素材を受け継いだ建築であったことも、洋風校舎が地元の人々に親しまれている背景であろう。
構成文化財
02
秋葉信仰と街道 令和4年度認定
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秋葉街道は、人々の祈りが息づく歴史文化の十字路であり、塩の道と呼ばれる信州との南北交易の道でもあった。街道を辿る旅は、多彩な歴史の積み重なりが体感できる。
古来、静岡県の奥地の山々は、神々が宿る霊場であった。天竜川を遡った標高866 mの「秋葉山」もその一つである。「秋葉山」は、戦国の世には武運長久の御利益を求めた武将たちの信仰を集め、平和が訪れた江戸時代には、火防の効力を期待する民衆の信仰を集めた。江戸を始めとする各地からの参詣者が辿った道は「秋葉街道」と呼ばれ、道沿いや集落の中には、秋葉燈籠が建てられた。現在も火を灯す燈籠は、祈りの姿を今に伝える。
南北を結ぶ道は、塩を始めとした交易を通じて海岸地域と山間地域の人々を結び付けた。遠江北部と奥三河、南信州を繋ぐ道筋に伝わる伝統芸能が持つ共通性は、街道を通じた人々の交流を物語る。

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エピソード1 神が住む山々 詳しく見る
- 山々には、神々が宿る。山頂域の寺社は、今も人々の信仰を集める。
- 天竜川を遡った標高約870 mの「秋葉山」もその一つである。秋葉山は、明治時代の神仏分離以前は、「秋葉社」と「秋葉寺」が併存した。
- 明治時代の廃仏毀釈により、護神の三尺坊大権現は可睡斎に遷座されたが、今も秋葉神社、秋葉寺、可睡斎では、火ぶせの祭りが毎年行われる。
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エピソード2 武運長久と火ぶせの祈り 詳しく見る
- 「秋葉山」の利益は、古くは武運長久が第一であり、武家の信仰を集めた。秋葉神社には、武田信玄、豊臣秀吉等が奉納した刀も伝わる。
- 太平の世を迎えた江戸時代。「秋葉山」は火ぶせの効力に注目した民衆の信仰を集めた。
- 「秋葉山」を目指して参詣者が辿った道は、「秋葉街道(秋葉道)」と呼ばれるようになった。
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エピソード3 秋葉街道と「塩の道」 詳しく見る
- 秋葉街道は古くからの道を母体とする。その一つが「塩の道」である。
- 塩の道は、太平洋側と日本海側から信濃へ「塩」とその対価を運んだ南北交易の道である。
- 太平洋側からのルートは、現在の牧之原市相良から御前崎市、菊川市、掛川市、森町、浜松市天竜区水窪を経て南信濃に至る。道沿いには、塩町(掛川市)や塩買坂(御前崎市・菊川市)等「塩」に由来する地名も残る。
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エピソード4 行交う人‐文化の交流‐ 詳しく見る
- 秋葉街道(塩の道)は、山間地域の人々を結び付けた。
- 秋葉街道が貫く北遠地域と隣接する奥三河や南信濃では、人々と神が結び付いた生活が営まれてきた。
- 正月行事の田楽や中世芸能を演目に持つ祭礼、猿楽、霜月行事の湯立て神楽(花祭)、盆行事の念仏踊りといった、各地に伝わる民俗芸能には共通性が見られる。
構成文化財
03
文学の聖地「伊豆」と温泉 ~癒しを求めた文豪たち~ 令和4年度認定
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伊豆の湧き立つ湯の香り、四季の移ろいで表情を変える山々、渺漠たる海は、多くの文人・墨客を引き付ける。伊豆を訪れた文豪の名を連ねるだけでも、日本文学の歴史となる。伊豆に逗留し、名作を生み出した文豪も多く、伊豆が舞台となった作品もある。
文豪が心を癒し作品を生み出した旅館、様々な作品に描かれた情景は、今なお各地に残る。川端康成の名作『伊豆の踊子』は、その代表例である。
作品が生まれた当時のままに残る旅館を発ち、天城路を辿れば、そこには作品に描かれた「天城越」の世界が広がる。

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エピソード1 湧き立つ湯の香 詳しく見る
- 伊豆は、出で湯の地である。
- 熱海市の走湯温泉跡では、温泉が湧き出す様子を体感でき、江戸時代には熱海から将軍家に温泉が献上された。
- この地は、古くは歌人を引きつけた。「走湯権現(伊豆山神社)」には、平安時代の女流歌人・相模が百首歌を奉納しており、十国峠には、鎌倉幕府3代将軍源実朝が沖に浮かぶ初島を詠んだ歌碑が建つ。
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エピソード2 文豪の足跡 詳しく見る
- 文豪ゆかりの建物も各所に残る。太宰治等が執筆活動を行い、山本有三・志賀直哉・谷崎潤一郎の対談が行われた熱海市の「起雲閣」、坪内逍遙ゆかりの「双柿舎」は、その代表例である。
- 武者小路実篤が滞在した伊豆長岡温泉の「いづみ荘」、芥川龍之介が滞在した修善寺温泉の「新井旅館」。夏目漱石が療養した「菊屋」も一部が残る。文豪の足跡が巡れることも伊豆の魅力の一つであろう。
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エピソード3 『伊豆の踊子』の誕生 詳しく見る
- 伊豆を舞台とした作品の中でも、川端康成の『伊豆の踊子』は、その代表例と言えよう。
- 天城トンネルが開通し、「天城越え」をする下田街道が多くの人々の往来で賑わいを見せていた大正7年(1918)の秋。一人旅で伊豆を訪れた19 歳の学生・川端康成は、伊豆の旅で踊子一行に出会う。
- この出会いが、『伊豆の踊子』を生み出した。
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エピソード4 文学の聖地へ 詳しく見る
- 川端は、生涯この地を愛し、地元の人々との親交を深めた。幼少期をこの地で過ごした作家・井上靖の家族との交流では、囲碁を打ち、ヤマメを御馳走になった。
- 執筆中の川端を慕い、梶井基次郎や宇野千代など多くの作家が訪れ、この地の旅館に滞在した。湯ヶ島が「文士村」となった背景には、文化を育てる気概を持つ温泉旅館経営者の存在が大きい。
構成文化財
04
文武に秀でた今川一族 ~伝統を守る山西の地~ 令和5年度認定
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戦国の世、駿河で名を馳せた今川氏。足利将軍家を武で支える一方で、文化を庇護し、とりわけ歌を嗜む家柄であった。駿河に花開いた今川の武と文化は、徳川家康にも大きな影響を与えている。
今川氏が、駿河で最初の領地を得たのは、当時「山西」と言われた志太地域である。「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元が、歴史の表舞台に登場する契機となったのも「山西」の地である。
今も伝わる駿河今川氏の「文」と「武」を探しに、いざ「山西」へ。

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エピソード1 今川、駿河に起つ 詳しく見る
- 戦国大名今川氏。9代義元の敗死と、その後の信長の活躍や武田・徳川の駿河侵攻から、歴史の引き立て役に扱われがちであるが、文武で室町将軍家を支える名門であった。
- 戦国大名今川氏が、駿河で最初に得た領地は、当時「山西」と呼ばれた志太地域の一角にある葉梨荘(藤枝市)。
- 「山西」の地と人は、200 年を越える今川氏の歴史の節目節目で大きく関わる。
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エピソード2 家督を継ぐもの 詳しく見る
- 今川氏は、義元の代で最盛期を迎えるが、領国支配体制は、その父・氏親が確立した。
- この2人は、それぞれ身内での争いを制し、家督を継ぐ。
- 2度の家督争いには、山西ゆかりの家臣や城が関わる。氏親を支えた一人が、焼津市にあった小川城の城主・長谷川氏である。義元と兄との家督争いでは、葉梨城等の「山西」の城で合戦が行われた。
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エピソード3 戦国の歌人達 詳しく見る
- 今川氏は、文化を庇護した。駿河に赴いた将軍と歌会を催す等、とりわけ「歌」を嗜む家柄であった。
- 家督を継いだ氏親は、島田出身の連歌師・宗長を招聘した。宗長は、小川城で城主と3日にわたる連歌会を開催している。宗長が、隠居にあたり結んだ草庵が吐月峰柴屋寺となる。
- 義元の子・氏真が山西の地で詠んだ歌も伝えられている。
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エピソード4 伝統を守る山西 詳しく見る
- 家臣の朝比奈氏は、出陣の際「ちまき」を携行したと記録が残る。「朝比奈ちまき」は、地元の力により現代に復活した今川時代の食である。
- 「山西」に今も受け継がれる、伝統芸能や行事の中には、今川時代に現在の姿が確立したものや、起源が遡ると言われるものがある。
- 今川氏や家臣の菩提寺には、供養塔や古文書が伝わる。
構成文化財
05
日本平が紡ぐ悠久の歴史文化回廊 令和5年度認定
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四周眺望の地、日本平。世界文化遺産の富士山を仰ぎ見る一方、眼下にはその構成資産となる三保松原など、古今名だたる景勝地を視界に収める歴史文化資産の展望回廊である。
日本平は、徳川家康ゆかりの久能山東照宮を始めとする歴史文化資産の集積地でもある。
その歴史は神話の時代に遡り、悠久の歴史の中でその眺望は人々を引き付けてきた。
眺望に魅せられた古今の文化が日本平で受け継がれている。

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エピソード1 日本平、名所となる 詳しく見る
- 「日本平」は、標高約 300 mの独立丘陵「有度山」の山頂及び一帯の呼び名である。
- その名が世に知られるきっかけは、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト・徳富蘇峰にある。蘇峰は、この地を訪れ、その眺望を絶賛した。
- 蘇峰が発表した紀行文を契機に、「日本平」は富士山眺望の名所として、全国に名を知られるようになった。
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エピソード2 眺望・景観の名勝地 詳しく見る
- 日本平の特質は、四周の眺望にある。仰ぎ見る富士山、眼下の清水港・三保松原、駿河湾越しの伊豆半島はもとより、遙かに南アルプス、御前崎も見渡す。
- 松原越しの富士山の眺望を誇る三保松原、浮世絵に描かれた薩埵峠、名園を持つ清見寺等、日本平に比肩する景勝を誇る文化財も多い。
- 様々な文化財が眺望できることも日本平の特長の一つ。
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エピソード3 悠久の歴史と眺望 詳しく見る
- 日本平の名は、日本武尊の伝承に由来すると言われ、その眺望は、古くから人々を引き付けてきた。
- 駿河に侵攻した武田信玄は、日本平の南にあった「久能寺」を山裾に移し、駿河湾を望む水軍の城「久能城」を築く。
- 久能城は、徳川家康の薨去後、「久能山東照宮」となり、家康や歴代将軍ゆかりの品々を今に伝える。
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エピソード4 人々を魅了した眺望 詳しく見る
- 山裾からの眺めも人々を引き付けた。
- 江戸時代の画家・司馬江漢の作「駿河湾富士遠望図」は、山裾に移された「久能寺」付近(現在の「鉄舟寺」)からの眺めとされる。
- その南にある龍華寺からの眺望は、明治時代の文豪・高山樗牛が愛した。北原白秋は、日本平付近の茶畑に着想を得て「ちゃっきりぶし」を作詞した。
構成文化財
国宝
法華経(久能寺経)
06
富士山の清流が織り成した産業革命 令和6年度認定
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富士山は、古より信仰の対象として畏敬されるとともに、数多くの芸術作品を生み、その自然の恵みは山裾に生きる人々の生活を支えてきた。
日本が欧米列強と肩を並べんと、近代国家への道を駆け上った明治時代。水力によって産業振興を目指す者たちがいた。その志を実現させたのが、富士山麓の豊富な湧水であった。
富士山登拝の拠点であった東西のまちには、富士山の恵みで新たな時代を切り開いていった人々の遺産が、今も確かに受け継がれている。

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エピソード1 登拝のまちと近代化 詳しく見る
- 世界文化遺産の富士山。戦国時代以降、各地から富士山登拝者が訪れ、山麓のまちに賑わいをもたらした。
- 時は移り、国を挙げて近代化に進む明治の日本。富士山麓の豊富な水に目を付け、産業振興を考える者たちがいた。
- 富士山登拝の東西の拠点であった小山町と富士宮市は、富士山の恵みの水とともに、新たな時代へ踏み出した。
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エピソード2 東麓の紡績のまち 詳しく見る
- 明治 31年(1898)、大都市と鉄道で直結していた小山で、水車動力の紡績工場が操業を始めた。
- 開業まもなく経営の危機に直面した工場を救ったのは和田豊治である。和田は、入社の翌年には赤字を全額解消し、生産を拡大した。
- 工場の設置と発展は、農業が中心であったまちの姿を大きく変えていった。
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エピソード3 清流を電力に 詳しく見る
- 明治後半期、各地で工場の電力化が進み、電力需要が急拡大したが、火力発電の主原料・石炭の価格は高騰していた。
- 活路を開いたのは水力発電である。小山の紡績業は、水車動力から水力発電へ転換し、電力の一部は地域に無償で供給され、まちに明かりを灯した。
- 富士宮でも電力化の動きに呼応していた。舞台となったのは、芝川沿いである。昭和初期までに 15 ヶ所の水力発電所が造られた
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エピソード4 富士の恵みを活かして 詳しく見る
写真提供:富士正酒造 - 富士山が恵む水は、紡績や発電だけではなく、特産品も生み出した。
- 江戸時代頃から湧水を活かした酒造りが行われてきた富士宮では、近年はクラフトビール等も生産される。
- 昭和 8 年(1933)に富士山の西麓で始まった養鱒業も、近代的な水利用の一つである。
構成文化財
07
田沼街道とまぼろしの城 令和6年度認定
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相良城から東海道藤枝宿に至る街道は、「田沼街道」と呼ばれる。
その名は、江戸時代の老中「田沼意次」に由来する。
賄賂のイメージが強いが、その実は「またうどのもの(正直で律儀な人)」と将軍に評された為政家であった。
意次の手腕は相良藩主として領国経営にも活かされたが、失脚によりこの地を去る。居城相良城は、わずか8年間のみの幻の城となった。
しかし意次の功績は、人々の記憶に残った。
意次が通った道は、大井川の新たな渡河場となり、地域の流通を活性化させた。この道を、意次を慕う人々がいつしか呼ぶようになった名が「田沼街道」である。
城下と街道沿いには、意次の遺産が静かにたたずんでいる。

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エピソード1 相良の殿様 詳しく見る
- 東西交通の大動脈である東海道五十三次の一つ藤枝宿から分岐する南へ向かう街道「田沼街道」。
- その名の由来は、江戸幕府の老中を務め、相良藩主であった田沼意次である。
- 「賄賂」のイメージがつきまとう意次であるが、将軍には「またうどのもの(正直で律儀な人物)」と評された人物であった。
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エピソード2 意次と田沼街道 詳しく見る
- 意次が相良藩主となった当時、島田宿ー金谷宿間のみが大井川越えの公認ルートであり、東海道から相良へ至るには、牧之原台地を越えなければならなかった。
- 意次は、相良城から江戸に向かう際、海沿いを進み藤枝宿に至った。
- 意次が通った道は、地域の流通に活性化をもたらし、いつしか「田沼街道」と呼ばれるようになった。
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エピソード3 まぼろしの「相良城」 詳しく見る
提供/聖心女子大学図書館 - 意次は、明和5年(1768)に相良城の築城に着手。
- 8年後の天明6年(1786)、意次が失脚すると相良城は破却された。近世では、日本一短命な城であった。
- 相良城の破却は徹底的に行われたが、意次を慕う人々により、建物の一部は領内や街道沿いの寺院に移された。
- 相良城の築城とともに整備された相良の町割りも、現在の地割に踏襲されている。
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エピソード4 意次の足跡 詳しく見る
- 意次の政治手腕は、領国経営にも発揮された。特産品の生産奨励に加え、湊を整備し、海上交易の活性化も促した。
- 牧之原市に伝わる「御船神事」は、相良湊の廻船問屋による海上安全・商売繁盛に端を発する行事である。
- 意次は現在のまちの礎を築いた名君であり、地元では田沼家を慕う人々により、意次関連の名物開発や顕彰事業が盛んに行われている。
構成文化財
08
駿河湾のめぐみと
行き交う船 令和7年度認定
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行き交う船 令和7年度認定
駿河湾の船の歴史は古代以前にさかのぼり、スルガの国は水上交通とカツオを特長として発展した。
戦国時代には水軍も活躍し、また、幕末には近代造船の原点となる日本初の本格的洋式帆船建造の舞台にもなった。
駿河湾は、富士山とともに美しい景色を織りなし、また、深海と黒潮による豊富な水産物をもたらしている。
古今、そこには船が行き交い、漁民による信仰と芸能も今に伝わる。
訪れた人は、眺望と食のめぐみをたのしむことができる。
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エピソード1 古代スルガの国づくり 詳しく見る
提供/富士市 - かつての有力首長は、駿河湾と浮島ヶ原の潟湖を一望する場所に、東海地方最大規模を有する前方後方墳などを築いた。
- さらに、内湾交通を率いたリーダーの亡骸を埋葬する棺に準構造船を転用。潟湖をめぐる水上交通を掌握した人物と船の重要性を物語る。
- 8世紀以降、駿河国や伊豆国が都に多く貢納したカツオ製品は、重要貢納品に指定されていた。駿河湾の漁は、国家中枢の食文化と財政、儀礼を支えたといえるのである。
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エピソード2 船の活躍とその原点 詳しく見る
提供/沼津市教育委員会 - 天正8年(1580)、北条水軍と武田水軍が激突した駿河湾海戦。北条氏の水軍は長浜城を拠点とした。隣接する重須湊に、安宅船などの軍船が停泊したのではないだろうか。
- 駿河湾には人や物を運ぶ廻船も行き交った。漆喰鏝絵などの伝統技術により洋風意匠を実現した松城家住宅は、江戸時代からの廻船業による繁栄を今に伝えている。
- 船の活躍の背景には、優れた造船がある。日本初の本格的洋式帆船「ヘダ号」を建造した船大工は、造船界の担い手となり、日本近代造船の発展に貢献していった。
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エピソード3 富士山とともに織りなす美景 詳しく見る
提供/富士市 - 東海道を西から進み、薩埵峠を越えて富士川に差しかかると、富士山と駿河湾が目の前に広がる。万葉集の「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」の歌が重なる。
- 駿河湾の北に広がる浮島ヶ原では、内陸に移転した吉原宿により、西へ旅しながら富士山を左手に望む「左富士」の名所が生まれた。ここでは、昭和30年代まで船も交通手段であった。
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エピソード4 駿河湾がもたらすめぐみ 詳しく見る
- 田子の浦港では鮮度と形の良さが抜群の「田子の浦しらす」、沼津港ではアジや様々な深海魚、戸田港ではタカアシガニなど、多種多様な水産物、食文化を楽しめる。
- また、海の守護神として信仰されてきた大瀬神社や、漁師によって伝承されてきた戸田の漁師踊・漁師唄など、船で働く漁民の信仰と芸能は今もなお受け継がれている。
構成文化財
09
ほとけ出づる祈りの里 伊豆 令和7年度認定
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伊豆の仏像は、奈良時代にはじまり、平安時代には各地にもたらされた。
そこには、伊豆諸島の噴火への畏れや伊豆半島の自然信仰との融合の可能性、さらに中世にかけては修験道との関係がうかがえるものがある。
鎌倉時代には、有力武士の北条氏と運慶が繋がり、力強い作風の仏像がもたらされた。
今も多くの仏像が各地に伝えられ、温泉や食に仏教への親しみも感じられる。
ほとけ出づる祈りの里、伊豆を旅すると厚い歴史をもつ仏像とその文化を愉しむことができる。
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エピソード1 仏の伝来と自然信仰 詳しく見る
- 伊豆半島の南部、河津町の南禅寺に伝来するのは、奈良時代の十一面観音立像や25体以上の平安仏たち。
- なぜ、都の中心でもないこの地に-。一説として、当時活発だった伊豆諸島の火山活動への畏れ、加護を願う信仰があったと考えられている。
- かつて旭滝の下の瀧源寺に祀られていた伊豆市金龍院の千手観音立像と不動明王立像、伊豆最古の湯とされる吉奈温泉との関係が深い伊豆市善名寺の薬師如来坐像など、自然信仰との融合がうかがえる。
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エピソード2 信仰の地に集う 詳しく見る
- 日本古来の山岳信仰に仏教などが結び付いて生まれた信仰、「修験道」。これに関連した地に仏像が伝わる。
- 箱根権現と伊豆権現(伊豆山権現)を結ぶ道の中継地、十国峠は霊的な場とされた。箱根権現に向かう道筋にある函南町桑原区には、薬師如来坐像などが伝わる。伊豆権現が遷座されている熱海市伊豆山神社には、走湯権現立像などが伝わる。
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エピソード3 武士と共鳴する仏師 詳しく見る
- 伊豆の国市願成就院の国宝仏像群は、北条時政の発願により、鎌倉時代を代表する仏師・運慶が造像した。慶派の仏師である実慶は、函南町桑原区の阿弥陀如来三尊像や、伊豆市修禅寺の大日如来坐像を制作している。
- そのほかにも、伊豆には慶派の仏像が多い。慶派仏師が東国における武士との関係を強め、活動を広げたゆえであろう。
- 慶派仏師が造り出す生き生きとした表情、筋肉質な体躯、躍動感ある衣文等の力強い作風は、武士の精神性や理想像と深く共鳴した。
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エピソード4 祈りが息づく地へ 詳しく見る
- 河津平安の仏像展示館とかんなみ仏の里美術館では、自治体と住民により、仏像の保存・公開がされている。
- 釈迦の誕生を祝う灌仏会で、釈迦像に注ぐ甘露として用いる「天城甘茶」といった仏教に関連する食文化も親しまれている。
- 祈りの里 伊豆では、地域の人々によって、今も多くの仏像が守り伝えられている。
